召喚魔術について
召喚魔術の儀式
召喚魔術、召喚術とは。儀式を行うことによってスピリットと呼ばれる存在とコンタクトを取り、願望成就の力を得る魔術である。
召喚魔術は古くから多くの魔術体系において行われ、その儀式内容は様々なものがある。
召喚魔術の儀式とは、スピリットを自分のもとに呼び、望む事柄を伝え、その実現のために働くことを要求する一連の行為をいう。
召喚するスピリットの種類にもよるのだろうが、古来より伝わる多くの儀式形態には、守らなければならないとされる厳格なルールがあり、この魔術の実践を敷居の高いものとしていた。
けれども、現代では、召喚魔術の儀式もシンプルなものが数多く紹介されている。
その理由として考えられるのは、スピリットの力を得て望みを成すという行為が身近になり、不要な要素が除かれたことであると思う。
不要な要素を除いた儀式
不要な要素とは、儀式を行う魔術師の気持ちを高めるため……その気になるため……にある、いわばデコレーション(飾り)の要素である。
たとえば、儀式前に身を清めることや、魔法円や杖・剣といったアイテムを用いるといったことだ。これらは、召喚されるスピリットが望むものではなく、私たち魔術師側が必要としていたものといえる。
スピリットを呼び出すのだから、これをして、あれを用意しなければならない。
そういった決まり事の中から、
これをすれば、あれを用意すれば、自分はスピリットを呼び出せるはず。
そういった気持ちの部分で、なくても問題のないもの……つまりは、魔術師側であったほうがいいと考えているだけで不要な要素が取り除かれることで、儀式はだいぶシンプルになったのである。
また、厳格で困難なルールを定め、それに従うことは、その行為を行う者にとってその価値を上げることにもなる(。
価値が高まった気になる)
かつての魔術師は、自分たちを人とは違う人間であると考えていたのかもしれない。
(それが人より上等か下等かは別として)
スピリットの力を得て望みを成すことが身近になった……すなわち、スピリットの力を得て望みを成するという行為に対して、いかがわしく後ろめたい、どこか特殊な人間がやることというイメージがなくなってきた。
そのため、スピリットの召喚を行う魔術師たちは、自分たちの行為を必要以上に飾ることをしなくて済むようになったのだろう。
君が召喚魔術を実践する際、ここに記す儀式ではなく、書籍などほかからの情報にある儀式を行うこともあるだろう。
そのとき、それらすべてに従うべきかどうか迷いが生じたら、このことを思い出し、対処するといい。
これがなくても(やらなくても)、自分はスピリットを召喚できる。
そう思うなら、除いてかまわない。たとえ失敗しても、そこから学び次に生かすことが大切なのだから。
ただし。まだ経験が浅く、指示された通りに行わなければ不安だと感じるならば、指示通りに行おう。
たくさんの文献を読んだり、召喚魔術の方法を調べたりするうちに、儀式において外せない要素が見えてくる。その上で、君自身の判断をプラスすればいい。
スピリットを召喚するという行為
よりシンプルになった儀式……特に、私たちケイオスマジシャンによる儀式は、シンプルな基本をさらに自分にとってやりやすくできるため、勘違いしてしまわぬよう、いっておくことがある。
それは、
スピリットの召喚は、特別な行為である
ということだ。
かつてよりも、行うのが簡単になった儀式。
時間もかからない。
そろえるのが困難な道具も不要。
魔法円その他を用意して身を守る必要もない。
もちろん、生贄もいらない。
だからといって、
スピリットの力を得て望みを成す行為を軽んじてはならない。
スピリットはきみの呼ぶ声に応える。
そして、きみの望みを実現する。
これは、特別なことなのだ。
決して、クリックひとつで欲しいものが届くネット注文などと同じレベルのものではない。
スピリットの召喚は、オカルトマニアなど特殊な人間だけが行うものではなくなった。より身近に、私たちがよりHAPPYに生きるための行為のひとつであることは確かだ。
けれども、
召喚魔術は、真摯な姿勢で行うべきものである。
それを、心して実践してほしい。
スピリットを信じることは必要か?
君はスピリットの存在を信じているだろうか。
天使は実際にいる。
悪魔は現実にいる。
と。
スピリットは存在する。
君や私が信じる信じないは関係ない、リアルだ。
現実に。
実際に。
この世の中に。
この世界に。
別の世界に。
この宇宙に。
別の次元に。
誰かの想像の中に。
君の頭の中に。
私の心の中に……。
どこにであろうと、だ。
スピリットは存在する。
君が信じているいないにかかわらず、である。
そして。
スピリットの存在を信じていなくても、
召喚魔術は行える。
必要なのは、
スピリットの存在を信じているかのように(スピリットが存在することがリアルであるかのように)、召喚魔術を行うことである。
これには、もう少し説明が要るだろう。
君は、召喚魔術を実践しようとしている。
召喚魔術とは、天使などのスピリットに望みを伝え、それを現実とするよう命じること。
つまり、君は、スピリットに自分の望みの実現のために働かせようとしている。
自分の力だけでは成し得ない望みを、人知を超える何かの力によって実現させようとしている。
そのことに異論はないはずだ。
スピリットの存在を信じているからこそ、召喚魔術によって望みを実現しようとする。
理論的には、そうなるだろう。
では、スピリットの存在を信じていなければ、召喚魔術は行えないのかというと、そうではない。
スピリットの存在を信じていなくとも、召喚魔術は行える。
もちろん、その魔術は機能する。
召喚魔術において、術者がスピリットの存在を信じている場合と信じていない場合の失敗(何らかの要因で魔術が機能しないこと)の確率は変わらない。
君がスピリットの存在を信じているのなら、
信じているままに、召喚魔術を実践しよう。
信じていないのであれば、次の項を読んでから実践に進もう。
スピリットの存在を信じているかのように、召喚魔術を行う
繰り返しになるが、
スピリットの存在を信じているかのように(スピリットが存在することをリアルであるかのように)、召喚魔術を行う。
これが、絶対に必要なことである。
君はこう聞くかもしれない。
「じゃあ、普段は信じてなくても、召喚魔術をやるときだけ、スピリットが現実にいるって信じればいいの?」
いや、そうではない。
召喚魔術のために、君の信念を変えなくてもいい。
「じゃあ、スピリットを信じてるフリをして召喚するの?」
ほぼその通り。
召喚魔術を準備し、実践するとき。
その儀式の間。
君は……。
スピリットの存在を心から信じているかのごとく振る舞うのだ。
神の名を口にするとき。
君は、神を信じているかのように、その名を口にする。
スピリットの名を呼ぶとき。
君は、そのスピリットに君の呼ぶ声が聞こえているかのように、スピリットに呼びかける。
スピリットに望みを伝えるとき。
君は、そのスピリットが実際にそこにいて君の話をきいているかのように、スピリットに話をする。
君は、召喚魔術を、スピリットが君の呼び声に応え、望みを聞き、その実現のために働くことを信じているかのように行う。
これを、信じるフリ、信じているフリというなら、そうだろう。
そして。
このフリが真剣であれば、それでいいのだ。
信じているように。
信じているフリをして。
ほかの言い方をするならば、
スピリットを信じている自分という役を演じて、という感じだろうか。
ただし。
この役を演じる行為を、適当にやってはダメである。
演じる間は、それになりきるのだ。
スピリットを信じている自分、に。
具体的には。
スピリットを呼ぶときは、本当に来てほしいのだという感情とともに呼ぶ。
気のない(どうせ誰も何も聞いてないと思いながら)呼び方はダメである。
スピリットに語るときは、今の現実を感情(辛い・苦しい・悲しいなど)を込めて訴え、望む現実を感情(喜び・嬉しさ・満足感)を込めて要求する。
(棒読みではなく)
また、感情とともに必要となるのが、権威である。
呼ぶのも語るのもすべて、スピリットに要求する権威を自分は持っていることを疑わずに行うのだ。
そして、ありがとうと言うときは、心からの感謝の念を示す。
実際に君の目の前に、君の力となるスピリットがリアルに存在しているかのごとく振る舞うのだ。
それが、召喚魔術におけるキモである。
君がスピリットの存在を信じていないのであれば、準備をしよう。
君の演じる役柄は、スピリットの存在を信じていて、望みの実現への期待にワクワクする魔術師だ。
スピリットは君の期待を裏切らないだろう。
自分(スピリット)を呼んで語る君がとても真摯であり。
自分(スピリット)の力を、要求された望みを自分(スピリット)が実現させることを当然だと信じる君にならば……。
スピリットは応えるだろう。